忖度と斟酌・なんてたって目標・多数が誤る 事務所便り2017年5月22日(月)No433

忖度と斟酌

「忖度(そんたく)」

(「忖」も「度」も、はかる意)

他人の心中をおしはかること。推察。

例:「相手の気持ちを忖度する」

「斟酌(しんしゃく)」

(水または飲料などをくみわける意から)

①あれこれ照らし合わせて取捨すること。

②その時の事情や相手の心情などを十分に考慮して、程よくとりはからうこと。手加減すること。

例:「斟酌を加える」「情状を斟酌する」

    (広辞苑より)

単純に相手の心情を推し量るのが忖度。

推し量った上で、それを汲み取って何か処置をするのが斟酌です。

自分たちに付託された裁量権で総合判断する。

豊洲問題でも森友問題でも、推し量るのです。

これはいずれも決定に当たって、官僚や役所等が得意とするころです。

なんてたって目標

競合する商品同士が一般化し差別化(機能、品質、ブランド力など)が失われて、価格や買いやすさだけを理由に選択が行われ、機能や品質面の大差のない製品が多く流通、消費者にとって「どの会社の物を買っても同じ」状態になっていくことが生じます。

会社の人材も一般化している実態に、派遣の蔓延が停滞を推進しています。

超えるための、「武器としてのチーム」で意識の再構築が必要になります。

グローバル化の武器を持たないチームは淘汰され存在はできません。

三流から一流へ「チーム自体が武器」とならねばならないのです。

その武器とは、前例のない本気にならないと不可能で、どうにか達成できる目標と、相互責任です。

単なる単年度比の数%の予算目標は、中(二・三年)本気にならないと不可能な大きな中長期の目標設定が絶対に必要です。

一人の失敗は、全員の失敗、チーム全体の失敗です。

それぞれが自分の規制の業界を変えましょう。

成功体験から学ぶ、天下を取るビッグビジネスを立上げようではないか。

実際に見ていても、類は友を呼ぶは真実です。

多数が誤る

多数が信じる神は絶対でしょうか。地球上に幾多の宗教があり、それぞれに神様がいます。自分が信じる神がすべてと信じています。言葉でいう正しさが神ではない。それぞれが神であり、仏です。

それは信ずる者の数ではないはず。

人間は、頭の中で考えるだけでなく、言葉を発し行動するです。

何を話し、何に泣き何に怒り、何を笑うのでしょう。

仕草を含めて外観に物理的に発したもの表現したもの全てが、その人を表現しています。

見た目が9割は本質的には不思議でありません。

見えない捉えられないものは沢山あります。言葉でも表せない、説明できないものが数多くあります。

人々それぞれが自分であり、その自分が作り出す事象の総体が国であり世界であり、虚構なのです。

「神は死んだ。今や我々は欲する。超人生きよと。」

ニーチェが「ツァラトゥストラかくかたりき」で述べている言葉です。

祈りは神に対するより結局、自分にある思いやりと慰めに祈るのでしょうか。

多数が誤り、多数が希望を失い、罪なき多数が殺されている。

これが現世の世界です。

戦後日本の借り物、民主主義は真に正しいのでしょうか。

これがアングロサクソン支配のグローバル宗教、一貫して多数が騙されるのではないでしょうか。

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