自分の責任
新年度に入って、二週間まさに社会の変革期にいるのではないでしょうか。
少なくとも社会経済の底流に鬱積を感じます。
変革にはチャンスが内包しています。
これまで新時代の黎明期に、多くの企業家を輩出している。
正しい道理を踏み、究極の利を追及するのは、人間の本来的欲求であります。
しかし道義にかなわぬものは、利が乗っても排除すべきです。
また常にいかなる場合でも、騙されても、結果責任を逃れるものではない。
伝統的集団に保身を求める人々はいつの時代にも多くいます。その集団が問題の元凶であってもです。
それは個人それぞれの理念・哲学の問題ですが、藁をもつかみたい心境の人にとって当然なのかも知れません。
結果は、すべて、騙された自分に責任があります。騙され招く害は欲の代償です。
押しなべて、自覚自体が全くありません。他人の責任にします。したがって、いつまでも死ぬまで騙されるのです。
それが、民の伝統なのであります。
日本の明治時代の黎明期に、福沢諭吉と渋沢栄一がいます。福沢諭吉は渋沢栄一より5歳年上でした。
単純に書けば福沢氏は西洋文明、渋沢氏は東洋文明であります。
福沢諭吉は個人の欲が究極的な存在であって独立自尊の脱亜論です。現在、日本の最高紙幣であります。
ちなみに中国は毛沢東。韓国は女性画家、米国はベンジャミン・フランクリン。
紙幣はその国の文化を示すと言えるでしょう。
渋沢栄一は儒教的功利主義・義理両立であります。
渋沢栄一が紙幣に登場する時代になれば国の方向が変わったと世界は見ます。
これからも時代は、欲の凌ぎあいが繰り返されますので、何事も真正面から戦わなければ、それぞれが生きている責任を、果たせないと思うのであります。
道は苦しい道に活路を開くのが近道。結果に得るものは多いのでは・・。
見えざる力
スパンの間隔はありますが禍福を繰り返し、世の中に見えざる力が働いていると感じれる人は、基本的に考え方が謙虚であります。
また前進する企業は障害・壁を超えるために、それぞれ、回りから見て「狂」の領域を体感しているものです。それを知る人が企業の躍進を下支えする人財です。死中に活を求める戦術自体に滅びの美学はあるが、すでに勝負は決しているものです。
不振の素
経営が順調な会社があります。一方不振から長年脱出できない会社があるのも現実です。
結果に当然原因があります。
小さな芽のうちに、手を打てない判断能力。倫理観の欠如や、私欲が主な原因です。
粉飾などは論外で退場すべきです。経営に嘘があるのは、犯罪行為です。
社会常識の問題です。どんな綺麗ごとを並べても、結果的に共同社会に害をなすといっても過言でありません。
生き伸びるため、必要悪として社会は認めるべきでしょうか。
私欲優先と指摘する人にどう説明するのでしょう。
責任者に公器の自覚が薄いのは、精神の本質が病んでいます。
カネの為ならなんでもする事と同じです。
誰も商品自体に影響が無いと信じ切れないでしょう。
無責任です。商品は全てトータルの信用です。
信は、人が言うと書きます。
デフレ時代は、偽物を水面下から、ゆっくりとあぶりだしてます。